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山口地方裁判所 昭和56年(ワ)265号 判決 1987年5月14日

原告

甲本ハナ子

右訴訟代理人弁護士

高井昭美

被告

門脇好登

右訴訟代理人弁護士

山枡博

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し、金三〇〇〇万円及びこれに対する昭和五六年一二月二九日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  原告は昭和二三年三月二二日生まれで、昭和四八年訴外甲本太郎と婚姻後、昭和四九年五月一五日長女あゆみを、昭和五四年六月五日長男亨をそれぞれ出産した。

被告は肩書地で産婦人科の診療所を経営する医師である。

2  原告は長女あゆみ懐胎後の昭和四八年一二月ころから数回に亘り被告の診療所で出産に備えて診察を受けたうえ、昭和四九年五月一五日、出産のため被告診療所に入院し、被告との間で、出産につき被告が適切に診断処置し、母子に異常が生ずればそれに対し適切な治療を施すことを内容とする診療契約(以下本件契約という)を締結した。

そして原告は同日午前九時ころ陣痛を覚え、同日午後五時頃破水し、午後八時三八分長女あゆみを出産した。

3(一)  ところが右出産時原告の会陰部に裂傷を生じ被告は会陰縫合処置をとり、同月二二日頃右縫合部分の抜糸をなしたが、右裂傷は治癒しなかつたので再度縫合手術をした。しかし右手術によつても患部は治癒しなかつたため、さらに被告は同月二七日頃三度目の縫合手術を施し、その際会陰部の肉を一部切除した。

(二)  同年六月四日被告は原告を退院させたが、三度に亘る縫合手術にもかかわらず、原告の会陰部は大きく切れたままで、肉は一部欠損し、肛門括約筋は機能不全となり、もはや右部位の機能回復は望めない。

4  右のように会陰部裂傷の治癒不全を来たし、肛門括約筋機能不全等の障害を後遺したのは、被告の三度に亘る縫合手術が医療としての適切を欠き、あるいは被告が治療十分でない状況で原告を退院させたまゝ放置したためであつて、被告の本件契約上の債務についての不完全履行に起因するものである。

5  原告は、会陰部裂傷の治療不全並びにこれに伴ない肛門括約筋機能不全等を後遺したことにより、次のような損害を被つた。

(一) 逸失利益 金二六三三万六二九五円

(二) 慰藉料 金八〇〇万円

よつて原告は被告に対し債務不履行による損害賠償請求に基づき前記の逸失利益金二七九六万二六九五円の内金二五〇〇万円、慰藉料金八〇〇万円の内金五〇〇万円合計金三〇〇〇万円及びこれに対する弁済期後である昭和五六年一二月二九日(訴状送達の翌日)から支払済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否<省略>

三  被告の主張

本件の原告の損傷が第一子出産の際に生じ、原告の退院時、創傷部位が完全には治癒していなかつたとしても、原告は創傷治癒が良くない特性体質を有し、出産後の縫合手術では完全に治癒しない状況にあつたものであり、退院後回復力の生じるのを待つてさらに会陰形成手術を行なうほかなかつたところ、

1  被告は退院時原告に対し、退院後不具合(違和感)があれば場合により再手術の必要があるから来院するよう指示したうえ、退院後看護婦長が原告方を訪問して不具合の有無を聞いているにも拘らず原告は来院はもとより被告に対し不具合を訴えたこともなく、被告が治療を行なうに必要な協力をしなかつたため、被告は治療の機会を失したものである。

2  また、第一回目の分娩によつて会陰裂傷を生じ、その後遺症状がある場合、第二子の出産終了時に治療してこれを修復することが第二子出産担当医師の通常の任務であつて、第二子出産担当医である訴外村岡節朗がが右治療措置をなさなかつた結果会陰裂傷に伴なう後遺症状が残つたとしても、これを被告の責に帰することはできない。

3  原告は昭和五五年一二月二四日、第二子出産後一年六月余を経過して始めて被告方に来訪し、第一子分娩時の会陰裂傷の縫合手術が不完全であつたことを告げたため、被告は、すみやかに産婦人科の権威である鳥取大学医学部産科婦人科の訴外前田一雄教授を紹介した。同教授は診断の結果、形成手術を行なうことによつて原告の症状は九割程度治癒することを明言し、被告も原告に対し、同教授による形成手術を勧めたが原告はこれに従わず、治療を受けようとしないのであつて、被告においては本件契約上の責務は尽している。

四  被告の主張に対する認否

争う。

第三  証拠<省略>

理由

一請求原因1及び2の事実並びに原告が第一子出産後、被告において会陰縫合手術を施したこと(回数の点は別として)は当事者間に争いがない。

二右事実と、<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。

1  長女あゆみの出産時、原告の会陰部に三度あるいは四度の裂傷(三度の裂傷とは肛門括約筋の断裂を伴うもの、四度の裂傷とは、直腸壁まで断裂し、直腸と膣の間に交通の生じるものをいう。)が生じ、被告は分娩終了後に会陰部を縫合した。

2  原告は縫合後の患部に痛みをおぼえ、これを看護婦、医師らに訴えたが、日時が経過しても癒着がおこらなかつたことから、被告は出産の三、四日後、改めて縫合手術をなした。その際被告は、患部の新しい肉を一ないし二ミリメートル削つて新しい肉どうしを縫い合わせた。

3  しかしながら再度の縫合手術によつても予後が不良であつたので、被告は同年五月末頃、三度目の患部の縫合をなした。

4  以上の各縫合について、被告が縫合前に患部をどのような方法で消毒したのか、縫合に際し用いた糸の種類、具体的な縫合方法などは、カルテの保存期間が経過し、これが廃棄された後に訴訟が提起された本件では、これを証拠上認定することは困難である。

5  被告は、原告の最終的な診断をなしたが、裂傷部位は日常生活に支障のない程度には治癒していたので、同年六月四日原告に対し、一か月毎に定期検診を受けるよう「退院後のしおり」を渡して指示し、また不具合(違和感)があれば告げてくれるよう指示し、日常生活に支障のない程度の治癒不全については、第二子出産の際に治癒した方がよい旨説明して、原告の退院を許可した。

6  退院後原告には排便の我慢が困難で、不時の失禁のおそれがあつたり腹腔内のガスの放出の自制ができないなど、肛門括約筋の機能不全の自覚症状が存したが、原告は第二子出産まで、我慢すれば治癒するものと考え、また日常生活に取り紛れ、出産後の乳児検診に行つた際にも、看護婦長の家庭訪問を受けた際にも、被告に右の症状を告げず、自らその診断治療を求めて被告の医院を訪れることもなかつた。

昭和五四年四月一九日、訴外全真会病院の医師訴外村岡節朗は原告の第二子出産に先立つて診察した際、原告の会陰部に陳旧性三度の裂傷がある旨診断しており、右第二子分娩の際には、右会陰部に新たな創傷が生ずることはなかつた。

7  訴外村岡節朗は、原告に対し、右の会陰裂傷治療のため、第二子出産後、山口大学医学部附属病院の外科医訴外江里健輔を紹介し、同医師は昭和五五年三月一九日会陰部皮膚欠損、肛門括約筋機能不全と診断し、原告に対し、形成手術は難しく、不成功も覚悟してもらえるなら、手術しましようと説明したため、第二子出産後容易に治癒しうるものと考えていた原告は不安になり、同年八月頃、被告に前記症状を訴えて治療を求めるに至つた。

8  これに対し、被告は、同年一二月頃鳥取大学医学部附属病院産婦人科教授の訴外前田一雄を紹介し、同教授は同月二四日原告を診察して陣旧性の三ないし四度の会陰裂傷、すなわち、かつて生じた会陰裂傷が瘢痕となつて治癒しているが、肛門括約筋は切れている疑いがある、但し形成手術は可能でその場合で九割位の治癒の見込があると診断して原告及び被告にその旨説明した。

9  しかしながら原告は被告の勧めを断わり、形成手術を受けないまゝ今日に至つている。

以上の事実が認められる。

三そして右認定したところによれば、被告による原告の第一子出産の分娩介助の際に原告の会陰部に三度あるいは四度の裂傷が生じ、被告は三度に亘つてその縫合手術を施し一応日常生活に支障のない程度に治癒したものの、創傷治癒不全、肛門括約筋機能不全の症状は残つたまま原告を退院させたものであるが、他方鑑定の結果からすると、一般的に創傷の治癒の難易については個体差があり、結合繊の軟化融解現象を促進するリラキシンやコラゲナーゼ(コーラゲン分解酵素)の産生低下がある個体においては軟産道の伸展性が不良となるため会陰裂傷を生じやすいうえ一方でそのような個体ではコラーゲン合成酵素の産生も充分でないと考えられるから創傷治癒がよくない体質となること、また同じ個体でも分娩直後よりも月経が再開して女性ホルモンが十分に出るようになる時期以降の方が創傷治癒は良好となることが認められ、また昭和五五年一二月段階でも形成手術により肛門括約筋機能不全等の症状は九割方治癒し得るものと判断されることに照らしてみると前記の治癒不全の結果のみから被告の縫合手術の不適切、あるいは退院許可の不適切の結論を導くことはできず、カルテの保存期間が経過して廃棄され、右の点の認定資料を欠く本件においては、縫合手術の不適切あるいは退院許可の不適切の事実を認めることはできない。

また、原告は退院後、第二子出産を経て被告のもとに治療を求めてゆくまでは、会陰部の創傷治癒不全、肛門括約筋機能不全により、生活上の苦痛を受けたことは前示認定のとおりであり、被告は治癒不全の状態であることの認識はあつたはずであるから、むしろ自ら進んで引き続き原告を診断し状況を見たうえで形成手術を施すなどするのが医師としてよりふさわしい態度であつたというべきであるけれども、被告は前示のとおり、退院に当つて不具合があれば被告に告げるよう指示し、第二子出産の際に治療した方がよいと述べたとは言え、これは右の指示に原告が従うことが前提となつていたものであるから、原告において何ら右の不具合を告知しなかつた以上、被告が引き続き原告の治療措置をなさなかつたことをもつて本件契約上の不完全履行と認めることはできない。

さらに第二子出産後原告が被告のもとに治療を求めて来院してからは、被告は前示のとおり、自己よりベターな専門医である訴外前田教授を紹介し、同教授において形成手術により九割方治癒可能であると明言したにも拘らず原告において形成手術を受けることを拒んでいるのであるから、この点において被告の本件契約上の履行義務は尽されているものと言うほかない。

従つて結局、原告主張にかかる本件契約上の義務の不完全履行の事実はこれを認めることができない。

四以上の次第で原告の本訴請求は理由がないからこれを棄却すべく、訴訟費用につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官大西浅雄 裁判官金馬健二 裁判官三木昌之)

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